切れば赤い血の出る 人の話



自然は、毎日 あたりまえの事として 水を循環させ続けて いる。
  とても、人知及ぶところでは、無い。



10日に行われた選挙で、僕らの日本国民は、最悪の結論を引き出した。
そして、昨日、震度6弱の地震が再度、日本そのものを揺すぶった。

僕は、常ならざる者が発した、「警告」と 思えてならない。
神がかった話では無い。
そんな、安易な話ではないのだよ。

まさしく、切れば赤い血の出る「人の話」なんだね。

いったい後、どれだけの災害が起きなければ、
  いったい後、どれだけの人間の命が失われなければならないのか、・・・・。

そうしなければ、人は気が付きもしないのだろうか

辛い事だが、これが 現実なのだろう。  


2011年04月12日 Posted by ぱーぷーぼうや at 18:08Comments(0)理屈をこねる。

では、交換価値とは 何か。

価値とは、   何か?

どうしても、その必要が在る、と思うので、
今回は大ブーイング覚悟で、理屈をこねます。

僕の理屈では有りません。
  100年以上前、哲学者の「カール・マルクス」が展開した理論です。
確か、「賃金・価格・利潤」ですね。
誤解が有るといけないので、最初に断っておきます。
僕は、別に「革命家」では有りません。
自然や文化や社会から、多くの努力をもって汲み上げられた、大切な人の「知」として
忘れ去られたこの理論を、あらためて提示したいだけなのです。

彼は言います。

さしあたって、商品は「使用価値」と「交換価値」を持っている。
使用価値とは何か。
平たく言うと、飯を食えば腹はくちくなる。これが、使用価値である。
では、交換価値とは何か。
現象をそのまま表現すると、ある商品が他の商品と交換される場合の「比率」と言える。
しかし、これは何の説明にも為っていない。
何を根拠に、その比率は決まるのだろうか。
需要と供給。?違うだろう。本来あるべき「交換価値其の物」の説明に、ならないのだ。
それは、先物穀物相場が、上がり過ぎたり下がり過ぎたりする事の説明にしか、ならないのだ。
では、   何を根拠に、その比率は決まるのだろう。?

それは、その商品を、「再生産」する場合、そこに掛る費用の比率なのだ。
10ポンドの綿と1ポンドの鉄鋼が其の再生産に掛る費用が同じなら、
それは、同じものとして、  取引される。

再生産に掛る費用、これをさらに分りやすい表現にすると、
   まさに「人件費」なのだ。
材料費?同じだ。これもまた、人件費なのだ。材料もまた、商品なのだから。

・・・・思いっきり、乱暴な書き方をしましたが、大筋で違ってはいないでしょう。
詳しく知りたい方は、原典を当たって下さい。
価格についてだけ、書きました。
賃金と利潤については、あまり今回意味が無いので、省いています。

100年たっても、これを越す理論が出てこない、それが、悲しい。

大晦日に、この一文、ハイ、すみません。
  でもね、今 必要なのです、こうした議論が。ほんとに、そう思います。  


2009年12月31日 Posted by ぱーぷーぼうや at 17:15Comments(0)理屈をこねる。

人は本当にいろいろな価値観を持って、生きている。



おいらは、お金と言う物にずいぶんと無頓着に生きて来てしまった。
理屈で言えば、多くの人より「きちんと話も出来よう」。だが、

感性から言えば、殆どそれについて「何も知らない」。

人はいろいろな、価値観を持って 生きている。
それは、金で有ったり、名誉で有ったり、愛で有ったり、才能で有ったりする。
でもさ、仮にだよ、お金が「其の人の価値観」だったとしてさ、
  そいつが、仮にさ、「貧乏人」だったとしたらさ、
(確かに、努力は実らぬ事も有るけど、)
おいらは、笑っちゃうぜ。
そうだろ、一生かけて追い求めたそいつを、「あんた」は、一生かけても得られなかって、訳だ。
間抜けな 話だ。  そんな事ぐらい、・・・・一生かけて努力したんだろ。

観えない振りを続けていると、本当に、ものは「見えなくなってしまう」。







  


2009年11月08日 Posted by ぱーぷーぼうや at 20:41Comments(0)理屈をこねる。

質量・速度・磁場の歪み、そして人の重さ!


野尻湖です。・・・・・物思いにふける、「まさゆきチャン」。

今すべき事。
十秒後、今日中、一週間、一月、半年、三年後、二十年後、百年後、億年後。
其の全てを、瞬時に判断しなければ・・・・ならない。
しかも、一つの事では無く、絡みあった全体として!
    つまりは、今すべき事の「優先順位」の瞬時の判断。

  これは、容易(たやす)い事ではでは、       無いのだね。

しかし、「物事を 成らせる」と言う事は、そう云う事なのだ。
  それを、しなければならない。
「物事を 成らせる」と言う事は、そう云う事なのだ。

目先だけを、関連を無視して、論ずる事など、  はは!、馬鹿でも出来るのだ
そんな程度では無い、「仲間」を、(これは幸運だと思う。)見つけたのだ!

やろうぜ。それを!。
  おいらの資質は「知」では無い。それは、「成らせる 意思!」なんだね。
やろうぜ、そいつってやつをさ!。   そうだ、もし、キミが望んだのならば

安っぺー話なら、ごめんだぜ。俺は、釈迦に説法を、しようとしているのだ。
だからこそ、「すみじい」さんは、「茂木さん」は、「新村さん」は、「・・・・・・・。!」
とにもかくにも、おいらを「買って」くれたのだよ。
「あんたならば、」皆が、そう言ってくれた。

そう、「小出 正幸」ならばねと。
計算、とても、大切な話さ。でも、
  そうだね。そいつは、
はは、 馬鹿馬鹿しい話さ。
捨ててこそ、 浮かぶ瀬も有るってもんだ。

理解できる人間は、理解するさ。
分らない言葉に、?、するより、
そいつを、汲み取ろうよ。
この時代に、少なくも「俺達」は、 責任 てやつを、持って居るんだから。  


2009年10月29日 Posted by ぱーぷーぼうや at 21:25Comments(0)理屈をこねる。

自信?・・・有るよ!。



そうだね。何もしないと云う、戦略は確かに 在る。
  12個の缶詰めの「計らない計り方」が在るのと、同じ事なのだ。


積極性に欠けるんじゃないの?  たぶん、違うね。
 何もしてないんじゃァないの?  ああ、何もしてはいないよ。
  それって、まずいんじゃぁないの?  たぶん、まずくは無いよ。
自信が無いの?  そりゃぁあ違う。自信が在るからこそ、こうして居られるのさ。

いずれ、僕たちが「何者」で在るかは、彼は知る事になるのだから。
慌てる必要は、無いよ。
  急ぐ必要は無いんだ。この将棋すでに詰んでいるんだから。
おいらは、笑ってタバコを吸いながら、「明日に架ける橋」を楽しんでるだけさ。

    


2009年10月26日 Posted by ぱーぷーぼうや at 20:48Comments(2)理屈をこねる。

希代の思想家




対立物の相互浸透の法則。

是は、マルクスとエンゲルスの表現。
ウラディーミル・イリチィは更に前に進めて表現する。

7月25日に書いた通り、
対立物の同一(もしくは対立)とは、・・・・。
此処まで、鮮明にした。  まさしく、「希代の思想家」だ。

石原莞爾が、建大に 講師として「トロツキィー」を呼ぼうとした事は、理解出来る。
莞爾は言い放つ。「東条?あれは只の馬鹿だ。スターリン?グルジアの只の、阿呆だ。」
「トロツキー、こいつは違う。レニンと並べて引けとらぬ、 希代の思想家だ。」

レニンがマルクスやエンゲルス又、大ヘーゲルより、優れている等と言いたいのでは、無い。
それが、つまりは、レニンの言う「時代の制約」なのだね。

それが全てとは、言わないが、そう、「希代の思想家」だね。
レニンは最後、こう結んでいる。
「発展は、対立物の”闘争〟」である。
僕の7月25日の「弁証法」を、見てくれ。
聞く耳持つ人は、 おのずと其の意味が、分るさ。
  


2009年08月23日 Posted by ぱーぷーぼうや at 20:19Comments(0)理屈をこねる。

弁証法 の歴史





しかも、それらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。
すなわち、

量から質への転化、またその逆の転化の法則。
対立物の相互浸透の法則。
否定の否定の法則。

マルクス・エンゲルス全集第20巻P376.
(ちあきなおみに、マルクスはもちろんカール・マルクスであり、
エンゲルスはもちろんフリードリっヒ・エンゲルスですね。)

揺るぎ無い、控えめな表現です。
彼らはその論理が、自然の・社会の・その歴史の中から
汲み揚げられたもので、したがってその「制約」を受ける事を
認めています。
これが、「控えめな表現」の理由。

彼らはその論理が、自然の・社会の・その歴史の中から
汲み揚げられたもので、したがって「事実」によって「論理」が
構築されたもので有る事を、示しました。
これが、「揺るぎ無い」理由。

「空想から科学へ」と時代の歩みを進めたと、宣言しました。
こう云う言い方もしています。
過去の科学者たちは「解釈」して来ただけだ。肝心なのは
それを「変える」事なのに、と。


  


2009年08月23日 Posted by ぱーぷーぼうや at 08:01Comments(0)理屈をこねる。

弁証法


 
 一つのものを二つに分け、この一つのものの矛盾した二つの部分を認識することは、
弁証法の核心(本質の一つ、唯一の根本的な特性あるいは特徴ではないまでも、
根本的な特性あるいは特徴の一つ)である。
ヘーゲルもまさにこのように問題を提起している、、、。
 対立物の同一」(もしくは対立)とは、自然(精神も社会も含めて)のすべての現象と過程のうちに、
矛盾した、たがいに排除しあう、対立した諸傾向を承認すること(発見すること)である。
世界のすべての過程を、その〝自己運動〟において、その自発的な発展において、
その生き生きとした生命において認識する条件は、それらを対立物の統一として認識することである。
 発展は、対立物の〝闘争〟である。

「弁証法の問題について」 ウラディーミール・イリチィ著

  


2009年07月25日 Posted by ぱーぷーぼうや at 17:44Comments(2)理屈をこねる。

そいつの名前は、弥生時代。










前回、戦争が始まったのは、弥生時代だと書いた。たぶん、その通りだと思う。

それまでの無意味とさえ受け取れる、ごてごてした、縄文土器を特徴づける装飾は、
一切の装飾を排除した、実利にもと付いた、弥生土器に取って替わられる。
(自然の恵みを賛美した、あの装飾は、価値と意味を失ったのだ。)

貯えを持った瞬間から、彼らはそれを守らなければならない羽目に陥った。
生きるためでは有っても、喜びでも有った仕事は、楽しみをはく奪され苦しみとなった。
地面に境界線が引かれ始めた時代。
自然や獣との戦いだけでは無く、人間と人間との戦いが加わった時代。
不安定な狩りの生活から、土地を耕し安定した定住へと移っていった時代。
(カルチャー・文化の語源は、カルチ・耕す から来ている。)
嘘や偽りが、生きる術として、意味を持ち始めた時代。
略奪と戦争が、時代の「秩序」として受け入れられ始めた時代。

生きる楽しみが、生きる苦しみと、いとも易々「交換」されてしまった時代。

戦争が、、、、、始まった、時代。

  


2009年07月16日 Posted by ぱーぷーぼうや at 15:05Comments(0)理屈をこねる。

確かにかつて在った。



確かに、かつて、戦争の無い時代が在った。
そうだ、確かにかつて、戦争が正義だった時代が在った。

以下の考察は、僕も全面的に正しいなどと思っているわけでは無い。
  なるほど、こういう考え方も一理は有るなと、思いは、する。

気が遠くなるような長あぁ~あい時間のある地点で、猿は立ち上がり、人に成った。
手と足が知恵を産み、耳と目が言霊を紡ぎだした。
これもまた、長い時を架けて、、、。
朝起きて夜眠ることが、仕事が、生活が、子育てが、飲み喰い眠り泄す事が、
自然に包まれ愛され、つまり、生きる事が「大いなる歓び」だった時代が、確かにかつて在った。

その時代の名は、縄文時代と呼ばれる。

貧しすぎて食うに手いっぱいで、奪う事も奪われる事も無い、時代。
だから、人々は寄り添い暮らす集落は持っていても、それを囲む堀を持ってはいない。
堀で囲って守るべき「貯え」其の物が、無いのだ。

考古学上これは全部では無いにしても、証明済みと言ってもいい話だ。
「人はそもそも争い合う生き者だ」と云う説には、上記の理由から、おいらは首を傾げる。
戦争は人の本能から産まれ出たものでは無いと、僕は思う。

それは、本能では無く、人の欲から産まれたのだ。
そして、何と言うことだ!それは絶える事無く今日(こんにち)まで、続いている。

(そこで、問題です。現在の日本は戦後でしょうか、それとも、戦中でしょうか?
  もちろん、戦中ですね。
アメリカに、手を揉んでケツを振って附いて行ってしまった日本。
  人権を守る・テロに対する・正義の・金にもなるのさ・景気を呼ぶ・愛する者を守るために、
 どんなに、まくら言葉を並べても、  どの道、戦争は戦争だよ。
      そうさ、そいつの氏はどうあれ、そいつの名前は  戦争  だよ。
           違ってるかな、マッケンジー神父。違ってるかい、僕のママ?)

では、何時からそいつは、お始まったのか。
その時代の名は、弥生時代と呼ばれる。

                                    つづく

  


  


2009年07月13日 Posted by ぱーぷーぼうや at 20:35Comments(0)理屈をこねる。

1を3で割る。

例えば、12を3で割ると、4になり、そこにまた3を掛けると12に戻ります。当り前ですね。

ところが、1を3で割ると、0.3333333333333333、、、、、と言う循環小数になり、
そこにまた3を掛けると、0.9999999999999999、、、、、と言う循環小数になり、
えっ~と、つまり、1に戻らないですね。??????!。

これがおいらには、よく解らない。
0.99999999999999、、、、は、=1なの?

大体において、無限ってぇのは、 何なんだ。
数学的にはおそらく、証明済みの事なんだろうけど、それを聞かされても、俺、理解出来ねえ~と思う。

ノーダイ・ワン、ノーダイ・ツウー、ノーダイ・スリイィー、ノーダイ・フォー、ノーダイ・ファィブハンドレットマイル、
、、、、、、500回聞かされても、たぶんおいらは、「500参る。(オヤジギャグだなぁ)」だと思う。

            アホ、ボケ、カス!私に振るな。
  


2009年07月12日 Posted by ぱーぷーぼうや at 19:07Comments(0)理屈をこねる。