食べずに読んだ

土は、不思議なものです。
本当にそう思います。

最近、偶然にも (だが、僕にとっては必然として受け取れる。)
ある、志有る 農人の方と、 親しくさせて 頂いている。

    


大いなる土 を求めて、この人もまた、もがいて居るのだ。
こうした、先人の何人かを、僕は知っている。
そして、聡明な人は、いつもたおやかで、なお また、揺るぎ無い。

こうした人に出会うたび、僕は、逃避したはずの現実に、引き戻されてしまう。
ごたごた抱えたろくでなしの この僕が、七面倒なこの話、愚は承知の上で、戎してみよう。

土は、自然そのものと、とてもよく似ている。
  形々(けいけい)、語れるとは思いもしないが、精一杯の話をしよう。
あの、茨木のり子さんだって、言っている。
「原文は知らないが
   あとは私が続けよう
     そう
 この失敗にもかかわらず
   私もまた生きてゆかねばならない
     なぜかは知らず
 生きている以上 生きものの味方をして」

黒ヤギさんから届いた手紙、そいつを僕は、食べずに読んでしまった。
  ならば、僕は、その御返事を、書かねばならない。
     そして、貴方には、それをやはり、食べずに読んで欲しいのだ。願わくば。

じゃぁ、やろうか。僕の 最も不得意な そいつの話を。


   、、、続く。(体力負けです。また、続きです。、、、、、そのうちビール瓶が飛んで来るな!  






 

  


2009年07月27日 Posted by ぱーぷーぼうや at 22:13Comments(0)おお、我が大地

うぅ~ぅん、、、?





           うぅ~うん、、、、?  


2009年07月25日 Posted by ぱーぷーぼうや at 17:55Comments(0)とほほ、、。

弁証法


 
 一つのものを二つに分け、この一つのものの矛盾した二つの部分を認識することは、
弁証法の核心(本質の一つ、唯一の根本的な特性あるいは特徴ではないまでも、
根本的な特性あるいは特徴の一つ)である。
ヘーゲルもまさにこのように問題を提起している、、、。
 対立物の同一」(もしくは対立)とは、自然(精神も社会も含めて)のすべての現象と過程のうちに、
矛盾した、たがいに排除しあう、対立した諸傾向を承認すること(発見すること)である。
世界のすべての過程を、その〝自己運動〟において、その自発的な発展において、
その生き生きとした生命において認識する条件は、それらを対立物の統一として認識することである。
 発展は、対立物の〝闘争〟である。

「弁証法の問題について」 ウラディーミール・イリチィ著

  


2009年07月25日 Posted by ぱーぷーぼうや at 17:44Comments(2)理屈をこねる。

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい
 


                  静かにたたずむ、杉林


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいのはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいのはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

          茨木のり子    「落ちこぼれ」  理論社より  


2009年07月25日 Posted by ぱーぷーぼうや at 00:07Comments(2)詩・書・画・など

蟹さんです





前は、大鍋で煮る程いました。
この2~30年で、激減しました。でも、松代にはまだまだ居ます。

クレソンとこの蟹は、絵としてとても似合います。
信州・松代は、いい処です。

  


2009年07月23日 Posted by ぱーぷーぼうや at 02:32Comments(0)真理人生ああ青春

最低の条件

環境や自然について話す場合の、最低の条件。

僕は常に、前提となる条件が、それも最低条件が、二つ在ると思っています。
一つ目は、自然と人間の大きさの違いを認める事。
二つ目は、本来人間が居るべき位置まで、ずぅ、、、、、、、、、うっと、後退りする事。
この二つの条件を満たさない自然や環境についての議論は、
言葉通り、「お話にもならない」話ですね。
自然に対し、タメ口を訊くような人間は、それを語る資格さえ無いと思います。

この事は、はっきり書いておく必要を感じます。
  つまらぬ処で、お互いのボタンを掛け違ってしまわない、おまじないです。



             忘れられた、うめ。

(持って回った言い方を避けるため、
断り無い限り以降、人間にとっての環境の保護の事を、「環境の保護」と書きます。)  


2009年07月21日 Posted by ぱーぷーぼうや at 23:01Comments(0)自然と人間と観念と唯物

人間にとっての、、、

人間にとっての(自然)環境。




なんで、こんな、持って回った言い方をするのか。
それには、ちゃんとした理由が在る。

タダの自然環境と、「人間にとっての自然環境」とは、イコールでは無い、と云う事だ。

川面に立ち、太くたおやかに けれど揺るぎ無く流れ行く、その流れに圧倒される。
  僕は、、、、、、、、、、、立ち尽くすのみだ。
自然の汲みつくせない大きさに、ただただ驚き、
  僕は、、、、、、、、、、、立ち尽くすのみだ

スケールが、違い過ぎる。笑っちゃうほど、、、、、。
     なんと云う違い。はぁっはは、、、、。そうだ、なんと云う違いだ!
その違いに対し、まず、畏怖の念を持ち、感謝する事。
そして、自然の手懐の中で、生かして頂いて居ることに、気付く事。

人は自然を必要として居ても、自然は人を必要とはして居ない。
  つまり、こう云う事だ。
人間は、「タダの自然 其の物」を、「破壊も出来ないし、まして、保護も出来ない。」
環境の「保護」と「破壊」が、同義語だって、事だよ。
自然に対し、人間はタメ口を言っちゃぁいけないと思うよ、俺は。
だから尚更、自然に対し「神」なんて、安っぽい名を易々付けてはいけない。

「環境の保護の美名」のもと、人にとっての その破壊は、
              ますます、その速度を増して行くだろう。  


2009年07月20日 Posted by ぱーぷーぼうや at 21:32Comments(0)自然と人間と観念と唯物

喜怒哀楽


 確かに、
 僕は、よく泣く男だ。
 そして、よく笑い、よく
 怒り、よく悲しみ、
 よく歌い、
 そうだね、常に人生を
 楽しんで来た。
 多くの人を傷つけてま
 で、そうして来た。

 僕はいつでも、努力と
 は無関係に生きて来
 てしまったように思う。

 何回読んでも難解と
 云われる「経済学批
 判」さえ、それがまる
 で、
 白土三平の「忍者武
 芸帳」の様に面白い
 から、広辞苑片手に、便所まで持ち込んで、読んだ。



マンガも哲学も小説もロックン・ロールも僕にとっては、どれも同じだった。
理屈をこね回した時も有りはしたが、最後は、どうでもよくなっちまう。
怒りにも似た悲しみが、そうだね、其処には確かに在った気がする。

僕は、よく啼く男だ。
「うおぉ~ん」  


2009年07月19日 Posted by ぱーぷーぼうや at 18:57Comments(2)真理人生ああ青春

断じて、玉ねぎではナイ。

    
        おいらは、ネコだ。  


2009年07月19日 Posted by ぱーぷーぼうや at 16:44Comments(0)とほほ、、。

環境の保護。

環境の保護。 、、、、、?




主語が無いですね

誰がやるのでしょう? そもそも、やらないのかもしれないし。
何時やるのでしょう?
何をやるにでしょう?
何処でやるのでしょう?
何故何のためにやるのでしょう?
ほとんど何も、分からない、そして、とても美しい言葉。

たぁ~まに、テレビを見るとまるで熱病にうなされてでもいるかの様に、連呼される、エコロジィー。
おいらが、真面目だって言いたいんじゃ無いけど、
         ちょっとぉ~、もう少しでいいから、 真面目にやろうよ
もちろん、一部には真剣さが伝わって来るCMも有るけど、多くは流行っているからやってるとしか思えない。

偉っそうに!それじゃお前は何て言うんだ。 当然おいらは、そう言われるはずだね。

おいらの考えを、出来るだけ真面目に誠実に書いてみたい。
「 我々が、 自分を含めた人間の為に、 人間にとっての自然環境を、 何時でも、 この地上で、
        人が暮らす事に依って、 護っていきたい。 」
そして、人は何を言ったかでは無く、何をしたかに依るので、おいらは、これを成さねば為らない。

努力ってやつは、実る事も有れば、実らぬ事も有る。それは、仕方の無い事だ。
でも、だからと言って、努力や誠実で在りたいと願う事を、しない訳にはいかない。
おいらはそれを、してきたし 今もしてるし 此れからもするつもりだ。
(えっ、本当」?って、、、、 
うっ!たじろいでしまった!此処は行き掛り上、堪えねばならん。此処が大見栄を切る場所だ!)
でも、これって、義務感からやってる訳じゃ無い。面白いからやってるだけなのね。
傷つけ合うのも、意味は在ると思う。
茹で卵みたいな、無傷なツルンとした人生なんて、 ハナっから、要らねえよ。

んじゃぁ、始めようか。 人間にとっての環境問題って、や つ を 。  


2009年07月18日 Posted by ぱーぷーぼうや at 20:07Comments(0)自然と人間と観念と唯物

環境の保護、について。





前回「空飛ぶ寄生虫」と言う本を紹介した折触れた通り、

自然は、有機的に絡み合った総体なので有って、
その一部分を、有機性を断ち切って取り出し、論じるのは
大きな危険を孕んでいると僕は書きました。

例えば、えい・ろくすけ(ごめんなさい、漢字が分からない。)さんが、

割りばしが有るでしょう。もったいないって言うのは分かるんですけど、あれ、
柱を取った残りの部材を有効利用すると言う昔の人の知恵でも有ったわけです。
昔の割りばしはとても綺麗だったし、それで生計を立てた職人さんもいました。
そして、障害を持った人たちが共同作業所で、その割りばしを袋に詰める仕事も有るわけです。
そうしたもろもろの絡みを含んだ議論がなされる事は、大切だと思います。
でも、議論さえ為されずに、事だけが前に進んでしまう。そういう場合もあります。

そんな内容の事を書かれた本を、読んだ記憶があります。
同感です。

環境について、想う時、僕も、これは軽々(けいけい)な気持ちでは話せないなと思うのです。
そうした話を、少しづつ、話せたらと思います。

                          すみません。体力が持ちません。続きとします。



  


2009年07月17日 Posted by ぱーぷーぼうや at 20:38Comments(2)自然と人間と観念と唯物

そいつの名前は、弥生時代。










前回、戦争が始まったのは、弥生時代だと書いた。たぶん、その通りだと思う。

それまでの無意味とさえ受け取れる、ごてごてした、縄文土器を特徴づける装飾は、
一切の装飾を排除した、実利にもと付いた、弥生土器に取って替わられる。
(自然の恵みを賛美した、あの装飾は、価値と意味を失ったのだ。)

貯えを持った瞬間から、彼らはそれを守らなければならない羽目に陥った。
生きるためでは有っても、喜びでも有った仕事は、楽しみをはく奪され苦しみとなった。
地面に境界線が引かれ始めた時代。
自然や獣との戦いだけでは無く、人間と人間との戦いが加わった時代。
不安定な狩りの生活から、土地を耕し安定した定住へと移っていった時代。
(カルチャー・文化の語源は、カルチ・耕す から来ている。)
嘘や偽りが、生きる術として、意味を持ち始めた時代。
略奪と戦争が、時代の「秩序」として受け入れられ始めた時代。

生きる楽しみが、生きる苦しみと、いとも易々「交換」されてしまった時代。

戦争が、、、、、始まった、時代。

  


2009年07月16日 Posted by ぱーぷーぼうや at 15:05Comments(0)理屈をこねる。

空飛ぶ寄生虫。

  興味深い本です。

  「空飛ぶ、寄生虫」  講談社。 藤田紘一郎 著

  自然と人間の共存を、
  グローバルに、そしてミクロの世界まで掘り下げた、
  非常ぉ~に、興味深い本です。
  こんな科学者も、居るのだ。

  自然は全てであり、人間はその一部でしか無い。
  全ては総体(あるいは相対)の中に有り、
  その一部を、関連を無視して議論する。
  まったくそれは、
  命の無い「静止」した議論であり、大きな危険を孕んでいる。

  綺麗は汚い。汚いは綺麗。

  矛盾を内に孕みつつ、そしてそれを肯定しつつ、
  全体の関係の中で議されるものこそ、命在る「能動的」な議論だと、僕には思える。 
  そう、軽軽、結論を急ぐ必要は、    無いのだ。

俺はごめんだ。      そう、俺はごめんだ。

  


2009年07月14日 Posted by ぱーぷーぼうや at 21:37Comments(0)自然と人間と観念と唯物

確かにかつて在った。



確かに、かつて、戦争の無い時代が在った。
そうだ、確かにかつて、戦争が正義だった時代が在った。

以下の考察は、僕も全面的に正しいなどと思っているわけでは無い。
  なるほど、こういう考え方も一理は有るなと、思いは、する。

気が遠くなるような長あぁ~あい時間のある地点で、猿は立ち上がり、人に成った。
手と足が知恵を産み、耳と目が言霊を紡ぎだした。
これもまた、長い時を架けて、、、。
朝起きて夜眠ることが、仕事が、生活が、子育てが、飲み喰い眠り泄す事が、
自然に包まれ愛され、つまり、生きる事が「大いなる歓び」だった時代が、確かにかつて在った。

その時代の名は、縄文時代と呼ばれる。

貧しすぎて食うに手いっぱいで、奪う事も奪われる事も無い、時代。
だから、人々は寄り添い暮らす集落は持っていても、それを囲む堀を持ってはいない。
堀で囲って守るべき「貯え」其の物が、無いのだ。

考古学上これは全部では無いにしても、証明済みと言ってもいい話だ。
「人はそもそも争い合う生き者だ」と云う説には、上記の理由から、おいらは首を傾げる。
戦争は人の本能から産まれ出たものでは無いと、僕は思う。

それは、本能では無く、人の欲から産まれたのだ。
そして、何と言うことだ!それは絶える事無く今日(こんにち)まで、続いている。

(そこで、問題です。現在の日本は戦後でしょうか、それとも、戦中でしょうか?
  もちろん、戦中ですね。
アメリカに、手を揉んでケツを振って附いて行ってしまった日本。
  人権を守る・テロに対する・正義の・金にもなるのさ・景気を呼ぶ・愛する者を守るために、
 どんなに、まくら言葉を並べても、  どの道、戦争は戦争だよ。
      そうさ、そいつの氏はどうあれ、そいつの名前は  戦争  だよ。
           違ってるかな、マッケンジー神父。違ってるかい、僕のママ?)

では、何時からそいつは、お始まったのか。
その時代の名は、弥生時代と呼ばれる。

                                    つづく

  


  


2009年07月13日 Posted by ぱーぷーぼうや at 20:35Comments(0)理屈をこねる。

ギャロメ通信!を読んで。

笑う文章では、ないんじゃぁないかなあぁ。
少なくとも、僕にとっては、身につまされる切ない話として、聞こえてしまう。

いつも、エンターティメントは、血まみれさ。
ほんと、かのゑさん、凛として立ち続けて下さい。
    おいら、見続けるから。最後まで。



                  見てるよ。
  


2009年07月12日 Posted by ぱーぷーぼうや at 21:19Comments(0)真理人生ああ青春

私は、他人なのよぅ~。


そりゃそうだ。他人だね。   そうそう、おっしゃる通り他人だよ。  


2009年07月12日 Posted by ぱーぷーぼうや at 20:54Comments(0)言いたくは無かった愚痴

1を3で割る。

例えば、12を3で割ると、4になり、そこにまた3を掛けると12に戻ります。当り前ですね。

ところが、1を3で割ると、0.3333333333333333、、、、、と言う循環小数になり、
そこにまた3を掛けると、0.9999999999999999、、、、、と言う循環小数になり、
えっ~と、つまり、1に戻らないですね。??????!。

これがおいらには、よく解らない。
0.99999999999999、、、、は、=1なの?

大体において、無限ってぇのは、 何なんだ。
数学的にはおそらく、証明済みの事なんだろうけど、それを聞かされても、俺、理解出来ねえ~と思う。

ノーダイ・ワン、ノーダイ・ツウー、ノーダイ・スリイィー、ノーダイ・フォー、ノーダイ・ファィブハンドレットマイル、
、、、、、、500回聞かされても、たぶんおいらは、「500参る。(オヤジギャグだなぁ)」だと思う。

            アホ、ボケ、カス!私に振るな。
  


2009年07月12日 Posted by ぱーぷーぼうや at 19:07Comments(0)理屈をこねる。

えっ!完全な人間?

欠けているからこそ、人間なのでしょう。

古事記だか日本書記だか、忘れましたが、
「我、なりなりて、成り余る処が、一つ有る。」
「我、なりなりて、足らぬ処が、一つ有る。」
「では、合わせけむ。」
つまり、人は、その初めから、独りでは生きてはいけぬ者として、産まれたと云う事でしょう。

ところが、僕は一人だけ、完全な人間を知っています。
その人は、言い放ちました。

「あら、私に 欠点なんか有るかしら。」、、、、、、、、!
      おいおい!

こんな言葉を自らの口で吐いたのは、
僕の知りうる限りただ一人です。

おそらく、この人はもう、人で在ることを、放棄してしまったのだと思います。
欠点の、あるいは、欠けるところの無い人間は、
すでに人間では無いと思います。

日本古来の言葉で表現すると、こういう人は、
        ・・・     人でなし     ・・・
と言う事になってしまいます。

完璧な人間?、いるわけ無いじゃないか、
あの世はともかく地上には。
そんな事さえ分からないのだ。
馬鹿も利巧も、
褒められも責められもしたことでは無いと、僕は思うけれど、
ここまで馬鹿だと、さすが、ちょっとね。
    う~ん、気が滅入るよ。ほんと、
馬鹿も休み休み言ってくれたまえ。




 おいおい、猫の俺だって、そんな恥ずかしい事、言わねえよ。  


2009年07月12日 Posted by ぱーぷーぼうや at 08:45Comments(4)自然と人間と観念と唯物

食わずに暮らす十か村の民衆。その壱。

むかしむかし、ある所に、上に赤いの字が乗っかる様な、貧しい村があった。
村人みんな、一生懸命働くのだが、何としても貧しい。暮らし向きは、いっこうに楽くにならない。
3年続きの凶作の、秋が暮れようとしていた。

村では幾晩もの寄り合いが、続いている。
[よわったのお~」「こまったのお~、このままではとてもこの冬は越せめいぇ。」
「今まで何度も苦しい年は有ったども、そのたんび、草の根までかじって凌いで来たこてが、
今年ばかりは、もうどおにもならねいぇ。」
「どうしたらいいのかのぅ。このままじゃぁ、村ごと飢え死にじゃあ」

今夜も話は、こまったのぉ よわったのぉばかりで、さっぱり解決の糸口は見つからない。
夜は、とっぷりと更けて、更にしらみ始めるばかり。

そのうち、誰かが
「これだけワシらが働いても働いても暮らし向きが楽んなんねえのは、
びんぼう神のせいじゃあねいかとこてね。」と、言い出した。
始めは
「まさか。ソンな馬鹿こくでねぇ。」とは言ってみた皆んなも、
「オウヨ、おれもその話、ばさまから聞いた事あるぞなこてね。」
「わしも、じさまから聞いたわ、わがは、どうじゃ。」
「おう、村にとりつく、びんぼう神の話しじゃぁろうが。」、と村衆がせいだすと、

さて、もしかしたら、そうなのかもしれん。
いや、たぶん、これは、そうなのだろう。
ついつい、
これは、絶対、びんぼう神のせいに、違いない。
と言う事に話は決まった。



こうなると、話は早い。
「どうせこのまま餓えて死ぬのなら、びんぼう神をとっ捕めてくれるだねかや。
飢えで死ぬのもバチで死ぬのも、死ぬはおなじじゃぁ。のう、皆の衆。そだねかや。」
「おうよ。どおせなら、びんぼう神も道ずれじゃぁ。」

       続く。
  


2009年07月10日 Posted by ぱーぷーぼうや at 22:19Comments(0)創作話。

もし、仮に 愛 が在るとして。



いつもきみのそばにいること。
きみのいきづかいまできこえるほどそばにいること。

ぼくはきみがすきだ。

かがみにうつるすがたでもいい。ぼくはきみをみたい。
でんわでもいい。はなしのなかみなんてなくてもいい。
きみのこえをききたい。

ぼくはきみのそばかすがすきだ。
ぼくはきみのひだりてのなかゆびがすきだ。
ぼくはきみのたばこのすいかたがすきだ。
ぼくはきみのしなやかなあわいふくにつつまれたちょっとげひんなおなかのらいんがすきだ。
ぼくはきみがいるふうけいがすきだ。

そうだ。
ぼくはきみがすきだ。

きみのわらいがおも
  きみのぬぎかけのくつも
    きみがつまずいたりけったりしたいしころさえすきだ。

きみがぼくにあびせるばせいはぼくをよわせ
  あふれるそのかわでいつもぼくはできしするのだ。

いっしょにみあげるまんてんのほしはてのとどかないぼくのきみだ。
「あら やいてるのね。」「そうだ やいてるのだ。」

すきだ。すきだ。すきだ。すきだ。すきだ。すきだ。くそ。そうさくやしいけどぼくはきみがだいすきだ。

そして
けしてぼくのものにはならないきみのぜんぶがぼくはすきだ。
   ぼくを いたぶり くるしめ おいこみ なやませる そう きみだ。
あいしてるよ。
      
くそ なんてぇよるだ。しあわせがかたでわらってぇいやがる。

でもさ、おれはらっきーだよ。とにもかくにもきみにあえたんだから。




  


2009年07月09日 Posted by ぱーぷーぼうや at 22:47Comments(4)真理人生ああ青春